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    商品カテゴリ一覧 > シャンパーニュ > シャンパーニュの注目生産者 > ペリエ・ジュエ

    ペリエ・ジュエ

    Perrier-Jouet

    200年に渡る歴史


    メゾン ペリエ・ジュエは、シャンパーニュ出身のピエール・ニコラ・ペリエとノルマンディ出身のローズ・アデル(アデライド)・ジュエの二人が恋に落ちたことで生まれました。二人の苗字を合わせたペリエ・ジュエという名前は、彼らの後世に長く受け継がれていくことになります。

    シャンパーニュのぶどう栽培者の息子だった25歳のピエール・ニコラ・ペリエは、ノルマンディのワイン商の娘として生まれた若き18歳のローズ・アデル・ジュエと出会います。二人はたちまち強く惹かれ合い、結婚。その1年後の1811年、ピエール・ニコラはシャンパーニュの卸売業を開始し、メゾン・ペリエ・ジュエを設立します。さらに3年後には、現在の本拠地であるエペルネ市シャンパーニュ通り(Avenue de Champagne)28番地に大きな家を購入します。

    当時はフランス第一帝政の終焉を迎えていた混乱期でもあり、さらに、1816年と1817年は、ぶどうが最悪の出来となった年でした。

    そんな辛苦をなめながらも、まだ小さい会社でしかなかったペリエ・ジュエは成長し、成功への道を歩んでいきます。そしてペリエ・ジュエの造るキュヴェはたちまち希少となり、値段が高騰。当時、普通のシャンパーニュが1.25フランほどでしたが、ペリエ・ジュエのシャンパーニュは3.60フランという高値で売られていたのです。

    ピエール・ニコラのペリエ家は、18世紀の頃からシャンパーニュにおいてぶどう栽培業で根を張っていた為、若い二人が設立したメゾン ペリエ・ジュエの成功はすでに有望視されていました。

    1756年の記録によると、ピエール・ニコラの父であるピエールは、一台の圧搾機とアイ村、ディジー村及びシュイィ村内にぶどう畑を所有していたと記されています。そして、現在もメゾン・ペリエ・ジュエはそれらの畑を所有し、大切に管理しています。

    1802年と1804年に次いで、19世紀の素晴らしいヴィンテージとなった1811年は、メゾン ペリエ・ジュエにとって初めての収穫年となりました。1819年8月2日、ピエール・ニコラは、1811年のヴィンテージは地下倉庫にもう50本しか残っていない、と懐かしさを込めて記しています。

    一方で、ピエール・ニコラは体が弱く、体調を崩してしまいます。ピエール・ニコラが仕事に従事できずにいた期間、ローズ・アデルが経営を担います。有能な彼女はさらに、外国市場への開拓を模索しました。そして1815年、メゾン ペリエ・ジュエは初めてイギリスへ、次いで1837年にはアメリカへの輸出を果たします。

    高度な教育と教養を備えていたローズ・アデルは、重要な顧客とのビジネス関係の構築も完璧にこなし、エペルネ市にある当時のメゾンは活気に満ち溢れていました。彼女のホスピタリティは、アール・ヌーボーの芸術的空間を施し迎賓館として生まれ変わった現在のメゾンでもしっかりと継承されています。

    海外の王室をも魅了する品質


    ピエール・ニコラとローズ・アデルの息子である2代目のシャルルのもと、1861年以降は、ペリエ・ジュエのシャンパーニュはイギリス王室のヴィクトリア女王を魅了し、その数年後には自国フランス皇帝の御用達シャンパーニュともなりました。さらには、スウェーデン、ベルギー王室も顧客となります。シャンパーニュの流行は1900年代に入っても続き、人々を陶酔させ続けます。

    ペリエ・ジュエは、2011年のモナコ公国の大公アルベールの結婚式において、公式シャンパーニュとして選ばれています。

    初めてのブリュット(ドライ)シャンパーニュとヴィンテージシャンパーニュの販売


    メゾン・ペリエ・ジュエの2代目であり、エペルネ市の市長も兼任していたシャルルは、イギリス及びアメリカの市場の開拓をさらに続けます。

    その頃、メゾン ペリエ・ジュエはシャンパーニュ業界における2つの特筆すべき業績を成し遂げます。シャンパーニュにおいて初めてのブリュット(ドライ、辛口)、及びヴィンテージ・シャンパーニュの製造・販売です。

    当時シャンパーニュは甘めのものが主流でしたが、1856年、イギリス市場をさらに開拓していくため、イギリス人の好む辛口のシャンパーニュを生産したことが始まりでした。そして、革新的なヴィンテージ・シャンパーニュの発売により、ペリエ・ジュエの高品質へのこだわりは不動のものとして受け止められます。1874年のヴィンテージは、1888年のクリスティーズのオークションで、シャンパーニュの中でもっとも高額な金額で落札されたのです。

    ※初めて辛口シャンパーニュを造ったのは、ポメリーとの説もあります。

    3代目アンリ・ガリスとキュヴェ「ベル・エポック」


    子供のいなかったシャルルは、1879年、その甥であるアンリ・ガリスにメゾン ペリエ・ジュエを引き継ぎます。

    3代目アンリ・ガリスは「シャンパーニュ生産者協会 L’Association Viticole Champenoise (AVC)」の重要な創始者の一人としても知られており、膨大な被害をフランス全土に急速にもたらしたフィロキセラ(葡萄根油虫)対策のため、ぶどう栽培者への援助を行うという業績も残しています。

    彼の功績はそれだけではありません。メゾン ペリエ・ジュエのシンボル的なキュヴェ、「ベル・エポック」を生み出したのもこのアンリ・ガリスでした。

    アール・ヌーヴォーを代表する巨匠エミール・ガレにデザインを依頼し、1902年に白いアネモネの花がボトルいっぱいに広がったキュヴェ「ベル・エポック」が誕生します。しかし、その美しいキュヴェは、第一次世界大戦の混乱の中、地下倉庫の棚でその後60年もの間忘れ去れてしまいます。

    シャンパーニュを飲み終わって空になってしまっても決して捨てることの出来ない、大切に保管したくなるような、まさにアートと呼べるボトルのデザイン。

    1964年、再び発見されたこの「芸術品」は復活を遂げます。

    ペリエ・ジュエのテロワールとワイン


    メゾン・ペリエ・ジュエは65ヘクタールを所有し、そのうち99%以上がグラン・クリュ(特級畑)として格付けされています。

    18世紀初頭から所有してきたぶどう畑の土壌は、一族の緻密な努力とともにさらに肥沃になり、メゾン ペリエ・ジュエのスタイルとこだわりに合わせて進化してきました。

    メゾン ペリエ・ジュエのぶどう畑は、主要な5区画(コード・ドゥ・ブランのクラマン村とアヴィーズ村、モンターニュ・ドゥ・ランスのマイィ村、ヴァレ・ドゥ・ラ・マルヌのアイィ村とディジー村)で構成されています。それらの土壌から作られるシャンパーニュは、すべてに共通してバランスがとてもよく、長い余韻を持ちます。

    ぶどう畑の約40%以上がメゾン ペリエ・ジュエの象徴的な品種であるシャルドネで、平均樹齢は23年という古木。

    丘の中腹に位置し、特にシャルドネの成熟に適した理想的なその土壌では、あらゆる神経が注がれ、ぶどうが丹念に育てられています。豊富な白い花のアロマ、さらに複雑味とコクを持った独自のスタイルをペリエ・ジュエのシャンパーニュにもたらしています。

    マイィ村で作られるピノ・ノワールは、フレッシュでデリケート、アイィ村のピノ・ノワールは新鮮な果実のアロマを含み、エレガントな仕上がりになります。ディジー村の1級畑で作られるピノ・ムニエは豊かなアルコール度を持ち、フルーティさとまろやかさをもたらします。

    選び抜かれた醸造責任者


    メゾン ペリエ・ジュエは、設立当初からぶどうの品質を最重要視しており、そのこだわりから、シャンパーニュの生産量も限られたものになります。2世紀という長い間、その伝統を守り続けることができる選び抜かれたメゾン ペリエ・ジュエの醸造責任者は、代々わずか7名のみとなります。

    現在の醸造責任者であるエルヴェ・デシャンは、2016年、60歳でフランス文化・通信大臣から「芸術・文学の領域での創造、もしくはこれらのフランスや世界での普及に傑出した功績のあった人物」に贈られる名誉勲章「芸術文化勲章」を授与されています。